神様だってサイコロを振る

考え事とキリスト教の話。

弱さを言葉に出来ない世界の中で

鼻が詰まると呼吸をしていたことに気付くんだ、と昔誰かが歌っていた。

 風邪を引いている。

残念ながら僕の住まいは学生寮であって、パートナーがいようといまいと甲斐甲斐しく看病イベントなんて起こることはない。たとえトイレのドアよりも薄いであろう部屋のドアの先が共有スペースの廊下に直結していようとも、同じ階に住んでいる仲間たちが特に干渉してくることもない。

それは手助けという意味においてもそうなので、僕は買い込んだポカリスエットウィダーインゼリーとカロリーメイトをひとりでかじりながら冷えピタを貼り、たまに深い咳をする。

そうやって喉の奥からせりあがってくる鉄のような味を感じると、久しぶりに古い友人に会ったみたいな気持ちになるのだ。

僕は昔から体が弱い。
昔に比べたらずいぶん強くなったと思うし、この風邪だって夏以来だと考えると快挙みたいなものだ。
昔は頻繁に風邪をひいていた。あまりに頻繁なために体調を崩すたびに「元気な状態の自分」というのを見失ってきたし、風邪はまるで家に遊びに来る友達程度に関わりのある隣人だった。どこまで良くなったら「回復」なのかというのもわからないままぼんやりと低空飛行を続けていたら、たまには遊んでやるかとでも言いたげな気軽さでそいつは再びやってきて、再び頭とか喉とかを蹴り飛ばしてくるのだ。

今思い返せばそのほとんどの始まりは、「看病と言う名目で自分の存在を誰かに意識していてほしい」という寂しがり屋の自己主張だったのかもしれない。気軽にやってくるそいつを自分の身体に招いているのは他ならぬ自分であったのかもしれないと今では思う。

だからといってそのような深層心理を解明したところで、人間そんな簡単に強くなれるのなら本屋に自己啓発の新書がずらずらと並ぶこともないだろう。そんな弱さを僕は抱えているし、いくら成長したところでその弱さは昔と変わらずそこにあり続けるのだ。そしてそのような弱さは僕だけに限らないのだと思う。きっと誰しもが「自分という存在を認めてもらいたい」と心のどこかで思っているし願っている。

それは恥ずかしいことでもだめなことでもない、と僕は思う。これは自己擁護のために言っているのではなくて、それを捨て去った時、その人のたましいとも呼べるもののうち、一部あるいはほとんど全てを失ってしまうように思えるからだ。

 

中学生のころ、内心ドキドキしながら大人向けの(表現をぼかすがそういうものだ)雑誌をコンビニでレジに持って行った時のことを思い出す。それをあっけないほど容易に購入できてしまったとき、僕の胸にあったのは達成感でもこれから読む内容に対する興奮でもなくて、全くの他人に対して人はほとんど関心を払わない、という事実に対する虚無感だった。

多分大人になれば当たり前のようにそこにある事実なのだ、それは。電車のホームに飛び込んだある一人の人がいて、ダイヤの遅れを伝えるアナウンスがかかるとする。そこでは多くの人が舌打ちをする。その中に電車のホームに飛び込んだある人の人生の苦悩と迷いと弱さについて少しでも考えようとする人がどれだけいるだろうか。きっとほとんどいないだろう。そしてそれはとてもさびしい現実なのだと思う。

けれどそれが当たり前になっているさびしさの中でみんな生きていて、そういう世界の中では彼が持っていたであろう苦悩と迷いを受け止める誰かが必要なのだ。

きっと誰もが心のどこかで「わたしはここにいるよ」と叫び続けているのだろうし、それが表に出てくるときには様々な形をとっているのだと思う。幼いころの僕が頻繁に熱を出して寝込んでいたように。そういうこころとかたましいの叫びみたいなものを、僕らは声にして、言葉にしていかなければきっと生きてはいけないのだ。

 

そんなことを考えながら、僕はぬるくなった水枕(凍らないジェル状のやつだ)を共用の冷凍庫に入れなおし、また深い咳をする。僕の部屋のドアは僕以外に開ける人はいない。その少しのさびしさと確実な休息が与えられる安心感に包まれながら、しかるべきときにしかるべき方法で弱さを表に出せる人の幸せを考えながら、眠りにつく。